読書メモ「なぜ、これがアートなの?」アメリア・アレナス、淡交社(1998)

著者は、元ニューヨーク近代美術館の名物講師。

アートを解釈する試みを書籍化。個人的には、それは、受け取り手、アートの消費者と言える人に任せておけばいいような気がする。しかし、アートを受け取りたくても受け取れない人がいるならば、アートを生活の一部としたくてもできない人がいるならば、それはそれとして必要なことかもしれない。

ただし、僕のスタンスとしては、アートは生活に必要であるというのは、消費者としてではなく、アートの創造者として、制作者として生きていくのだというのが正解だと思っている。

個人的には、抽象的なもの、パターンを描く、作るので、その辺りでシンクロするものがないか探ってみる。

マーク・ロスコという画家がいるが、どこか引き寄せるものがある。

そのロスコに関わる記述を見つけたので少し見てみよう。

あとニューマンという人についても書いている..

僕がAmazonでちょっと気になって影響を受けた人としては、Donald Juddだったかな。

金属とオブジェクトで、建築的な感じで…

制作方法が書いてある。単純な四角形を書いていたというより、その単純さの中に、積層させる色の複雑さを織り込んでいた。

単純なもの中に見える複雑さ..

やはりアートの方が早く進んでいる。

スティーブ・ジョブズなどがAppleで表現したプロダクトの世界観がある意味ここにあるのかなと。

p76「ロスコの制作方法はかなり複雑で、その過程を再現するのは不可能に近い。赤をはじめ、茶、灰色そして真紅などの絵の具を透きとおるほど薄く溶いて何層にも塗り重ねる。時には下地がまだ濡れているうちに色を塗り重ね、またときにはそれが完全に乾燥するのを待ってつぎの色を塗ることもあった。その結果、暗い部分や透明感のある部分、あるいはもっと深みのある部分などができ、それによって表面がわずかに揺れ動いているようにみえる。長方形の画面の中にはほとんど見えないものの、ひとつながりになった帯状のものが四角い「枠」を形成している。ヒッチハこの枠の部分でよりはっきりと確認することができる。それは筆致というよりも薄く溶いた絵の具を、繰り返しカンヴァスに染み込ませてできた、しみとでもいったほうがよいかもしれない。そしてしみとしみが交わるところにできる震えるような縁がなければ、このぼんやりとした長方形は見えなくなってしまう」。

そして、続く部分には、他の画家のことも考えながら、どうして抽象画家は抽象画を描くのかについてつぎのようにまとめている。

p76-77「それぞれの違いはあるとしても、この世代のアメリカの抽象画家たちには、顕著な共通点も存在する。ニューマンの堂々として神秘的な幾何学の中にも、ロスコの繊細な叙情性の中にも、そしてポロックに衝動的で絵の具をほとばしらせた絵画の中にさえも、言葉では表せないあふれる感情を、形や色による視覚的な詩 ヴィジュアル・ポエトリー として探求しているのが見てとれる。それは原初的あるいは神秘的なヴィジョンの追体験といえるかもしれない」

もちろん、私を含め、抽象的な形態や2次元構成等に携わる人には、この視覚的な詩を描く機会とチャンス、権利と義務?がある。(笑)

それから、アートとして表現できるメリットは、「言葉では表せないあふれる感情」だけでなく、「意思」「意識」「願い」「祈り」など、様々なものの表現もまたその制作物の中に見出せるものだと思うのだ。

そして、何がアート何かを教えてくれるかもしれない示唆に富む終章の逸話に目を向けてみよう。

p189「本書はアートについての伝説で幕を開けた。それではもう一つの伝説で、幕を閉じることにしよう。これは大プリニウスが書いた自然に関する本の中ではじめて紹介された、ラブ・ストーリーである。

昔々コリントに、陶工の父をもつひとりの娘がいました。二度と会うことのできない男と一夜をともにした彼女は、その夜、口に出してはいけないような衝動に駆られて、壁に映った恋人の影を線でなぞりました。翌日、娘の絶望的な思いを知った父は、その輪郭線に粘土を埋め込んだのです。こうして、はじめて彫刻がつくられました。

結論として、アートを作る。そして、アートを鑑賞するということを著者は次のように説明する。

p193「アートに対する私たちの反応もまた、この作品が語るように、私たちが感じることと想像することの、そして私たちが知っていることと、知っているつもりのこととの、気ままな組み合わせの結果だからである。それは知覚と期待、閃く直観と「美しき誤解」の絡み合った迷路。… それはアーティストが「生」や「現実」のまわりの影をなぞって描いた微かな輪郭を、私たちが自らのイメージで埋めていく作業なのである。

確かに、想い。そこにある想いがアートを作り、それは厳然たる形や色、存在するものとしてそこに媒介するものである。アートはメディア<媒体>とも言えよう。

そしてそこに、儚さ、切なさを表現するのは、「セカチュー」然り、冒頭のピグマリオンの神話もしかり、人が愛に生きれないことの切なさを悲しさを強調するのである。

だから、愛に生きよう。

そうすれば、またアートの地平も変わろう。

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