さて、
今日もこの時間がやってきた。
3日坊主のとの戦いがやってきた。
継続力の話が、
年始にはよく似合う。
怒りの継続力。
感情の継続力の一種だが、
6秒ほどで大きな山は超えるそうだ。
覚えておこう。
7秒ほど経てば、
ラッキー!
幸運にも、
怒りを制御することにほぼ成功したのだ。
21日間。
習慣化するのに必要な日数だそうだ。
そもそもプロセスとしては、
習慣化すべきなのか、
いいえそれは習慣化すべきではない。
いやそれは習慣化すべきだと言う議論が必要だ。
それに勝ったもの。
勝ち残ったものが、
栄えある21日間の習慣化固定のプロセスに進む事ができる。
あくまでルーティンとして固定化するのに、
必要なのが21日間ぐらいという話である。
これは、
言い換えれば3週間である。
さらに言い換えれば、
おそらく1週をサイクルとして3周すると言うような事の原理を考える事ができる。
3と言う数字は強調するのに適した数字である。
1では、確実性や絶対性が指し示されるのに対し、
2は、2番手とかペアという概念を伝えている。
3にはバランスをとるためのトライアングルという図形的な意味合いもあるが、
ここではリピートとしての最低限は3回であるとしておこう。
さて駄文をさておき、
世界を凄まじいほどの勢いで進むこの革新の時代に何をしなければいけないのかそんな点を少し触れておおこうかと思う。
何と言っても、
自分が自分自身のことをもっとよく知らなくていけないのではないか、
根本的なところに目が行くようになってきた。
つまり情報が均一化し、
誰しもが世界最高度の情報を一瞬で獲得できるようになってくると、
瞬間値としての知識や情報に何も驚きや喜びを感じなくなってくる。
これは一昔前では考えられなかったことであろうが、
事実化してきている。
ネットで検索。
これで、
リーチできる内容は一昔前ならば、
王族や貴族しか知りえないような内容な事もありえたのかもしれない。
その情報収集たるや世界を知ることができるのだから。
しかし、
この時代どのように情報をコンパイル(集積)するのか、
どのようにソート(分類)かけるのか、
その2点だけでも商売が成り立ちそうである。
情報収集に意味を持たせ、
脈略をつけることで一定の価値が生まれうる。
しかし、
これもすぐにチープ化(陳腐化)しうる。
時代を超えるのは、
やはり知恵
実行することのできる情報とその考え方
概念的なものであって
言葉そのもので伝えることもできようが
その伝わり方は
段階的で検索の到達のスピードとは異なるものであろう。
そのようなインフォメーション(情報)としてのインターネットが
脳の中の信号のようなものから
知恵や実行としての価値
賢さを示すことはどのようなプロセスが関係するのであろうか。
人工知能(A.I.)はすぐそこまできている。
機械学習(機械が自ら学習をする)これもまた現実化している。
しかし、これらに知恵はあるであろうか、
つまり教養や哲学
概念的なことを考えたり
目的やビジョンを作り出すことは可能であるのだろうか
自分自身はまだその答えを得ていないが、
しばらくの間というより
この部分は人間としての理知の牙城として
機械とそれを逸にするものであることを信じるものである。
これもまた人間の人格回帰なのではないだろうか
機械的人間をいかに取り除くことができるのか
それは人類の人としての人格への挑戦であり、
そのための機械化やオートメーション化(自動化)があるべきなのである。
そう、
決して人を機械に変えるというものではない。
機械に仕事を奪われると心配するような議論もいくらかではあるものの見聞きしたような記憶が曖昧ではあるが、ある。
それは無用だ。
というより、
思い込みか勘違いいや
誤解していると言えるのかもしれない。
そう誤解している。
もしくは科学者・研究者が誤った目的のためにそれを追求し、
それゆえに誤解が先行するということもありうる。
しかし
そうではなく、
人を人たらしめるのは何なのかを
人自身が知るようになるための工程を人類は歩んでいる。
そう捉えることが大切なのだと思う。
逆にそう捉えるとICTの発展やインターネットの発展による技術革新
便利さが何をもたらしているのか
そもそも機械を作る目的とは何なのか
をよく考えた上での倫理観が生まれるのではないかと思う。
これまで、
ネット上での倫理観という概念は意外なほどに論議されてきていないのではないかと思う。
というのも人類自体がこの新しいツール(技術革新によって得たおもちゃとも言いえよう)を
いかに使うのかを十分に考え、
結論を出すほど時間と試す時間を与えられていないのかもしれない。
偉大さはネット上でも表現できるが、
薄められたり、
卑しめられたりしているように感じる人もいるだろう。
脳という臓器が、
シナプスとニューロンという神経細胞とそのつながりから構成されているのと同じように
ネットワーク構想化されたインターネットは、
いわば決して目にすることのがなかった脳の断面を見せられているようで、
いささかぞっとするのかもしれない。
そのような生物的な嫌悪感は否定するものではないが、
技術の論議とはまた別物かもしれない。
技術者それをオタクのとして追求している。
集中することで
熱中することで
熱を帯び、
成果を生み出すことができるからだ。
このプロセス(過程)は変わらないであろう。
しかし、
より内面的なってきているのは、
人の奥深さに人は興味があり、
それが発展や進展のフェーズとして残されていたという点だ。
もしかしたら
残されていたというよりも
昔からそれらは
ある一定の形でスピリチュアルな形で存在したのかもしれないが…
なにやら結論が出ないまま、
論議を転じて、転じてというような論法になってしまった。
このような文章にお付き合いされた方、
さぞお疲れでしょう。
申し訳ない。
結論もないままこのまま終わることにする。
それが身のためだ。
さて、
今日の星空は本当に綺麗だ。
安曇野の今日の夜は寒く冷え切っている。
空気も澄みわたっている。
月は出ていない。
雲ひとつない。
最高の星空だ。