「岐阜」の名前の由来は、中国の孔子の故郷との関連があるらしいということがわかった。その「曲阜」という地名の後半と「岐山」という都市の名前の漢字ひとつずつをとって「岐阜」。
名付けの親はどうやら、織田信長らしい。
為政者が、その土地の名前を変えてしまうほど、力を持ったということもそうだし、楽市楽座などの商業的な政策もまたこの岐阜が発祥とのことで、今もなお信長公のルーツを辿れるものが大いにある。
今回の岐阜はいみじくもその商業施設の計画。昔ここに商業を色んな人が自由にやっていたのだな〜と思いを馳せながらもおそらくできるのは、グローバル的な資本が入ったテナント施設中心になるとおもう。
そして、何よりも車。徒歩と馬中心の陸上的な移動方法は、この車という金属の塊が個人により所有されることにより、かなりのスペースを求められるようになった。
恐らく、モビリティ革命みたいなものがもう一度起きて、この人口減少社会における日本のみならず、過密都市などでも有効な新たな個別交通システムが確立されていくと見ている。
これは10年くらいで始まって、普及してもおかしくはないが、建築の計画には未だ反映はされていない。改築レベルも計画は意図されていないレベルだ。駐車場の規模や台数は、駐車場法やその条例により制限があるし、車社会はまだ全盛期。
今後の新しい社会都市モデルをそろそろ考えて実験できると良いとおもう。そういう意味ではトヨタの都市モデルかな?
モビリティのサイズ感や人々との間の取り方について考え、実験する時期なのかなと。そして新たな都市モデルづくり。
さて、ポルトガルの宣教師がこの岐阜の信長の館をして、地上の楽園を作ったと言わしめているが、それは何故だったのか。
誇張的にそう記したのか?それとも祖国以上の何かをそこに見たのか?
面白かったのは、配膳を信長自ら行い、恐縮したという記述が残っていること。
海外の情報に重きを置いていたことの裏返しかもしれないが、興味深い信長の一面を見た。それは、おもてなしとしての余興のような楽しげのものだったのか、外国への畏敬の念からのものだったのか。
今はなき、安土城に移動するまでの9年間信長はいたらしい。しかし、岐阜城の歴史は、もっと前からもっと後も続いていた。それは、1601年の江戸幕府後という意外と短期間だ。
安土も岐阜も旧為政者ということで、家康公からも消される存在の対象だったのかもしれないのだ。やはり、覇権を取る個人はそうなるものなのだろうか。
豊臣秀吉の建てたと言われる中でも惜しむらく消えてしまったものも。
金が世界一でたと言われる時代だったからこそ、ある意味バブルだったということもできる。バブルと政治的な混乱が同時混在したからこそ、日本史における最も興味をそそるドラマが数多く生まれたとも言えそうだ。
現代建築もまた岐阜に花を添えていた。
それは次の記事で、では紹介することとしましょう。
P.S.ちなみにお城は古い木造の戦国時代の本物の城ではなく、EVこそないけれどコンクリート建築です。
(こういうとイメージ壊れてしまうけど中に入るとわかります。やはりキシキシと床が鳴るようなお城がよりリアルですよね)
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