福祉と金融の画期的なアイデア!!

今日は、経済学のような話かも知れませんが、業界いや経済的特性を鑑みた理論的なものとも言えるかも知れません。それをご紹介したいと思います。

と言っても、そんなに難しいものではありません。

結論だけを言えば、一つの文章で事足りるからです。

でももしこの理論を実践するとしたら、結構色々な社会の資本経済的な部分や税制やたくさんの社会構造が動くのでそう簡単にいうけどね..

というような反応も想像はできます。

まぁでもそう言っても始まらないので、まずはどういうアイデアなのかということとそれを思い浮かぶに至った経緯を少しだけご紹介しようと思います。

少しばかりお付き合いくださいませ…

まず、2018年のことなのですが、私はオーストラリアのシドニーにおりました。

何をという話もありましょうが、その時に出会った文献(講演)、マテリアルとも言いましょうか。

それがありました。その中で、お金に、いや富でしょうかね。資本とも言えるかも知れません。

資本についての真実として説明されている一文がありました。

こんな文章です。

「・福祉に使われるお金は、生産の提供と交換されないので、その価値を落とします。」

この言葉を残したのは、L.ロン・ハワードという作家です。

確かに、福祉というのは、生産の提供ではなく、ただ資本が消費されます。

それで、資本が価値がなくなるというわけです。

資本の価値がなくなるとは、生産に対して生産を呼ぶという投資的な発想、そして経済成長という観点による価値ですね。

そもそも経済成長とは何でしょうか。

経済成長とは、5人でできた仕事が、3人でできるようなこととされています。

その国だったり、グループだったりの生産できる能力が上がる。そのようなことが経済成長とされています。

つまり、資本が動き、お金がさらなる生産のために価値をもたらす時、連鎖的な向上スパイラルが起きるというわけです。

では、福祉に使われた資本は何かを生み出すかというとそれは生み出さない状態になっている。それで、福祉が生産に繋がらないというすごく端的な言葉です。

私も含めて、少し抵抗感のある理解かもしれません。

社会として、福祉に使われるお金は必要ではないのか。それを否定しているのかと。

実はそうではないというのが、ここで説明できることかと思います。

福祉は確かに社会で必要であるかないかについてはここでは表現されていません。

是非については論じていないのです。

例えば、考えの幅を広げるために、仮に全ての福祉が社会でなくなったと仮定します。そうなると、全ての行動や生活は自己責任になります。

さて、社会にはいるだけで消費しているものがあるのか、ないのかそして、社会にはいるだけで得られるものがあるのか、ないのか。

ややもすると憲法やそこで保証されている権利と義務のような話になります。

しかしながら、これはあるようでないもの。

権利があるとされつつも、どのように保証されるかは曖昧。

義務はというと、どのように義務を果たすかは曖昧。

このような曖昧の中に社会がデザインされている以上、社会論としてはこの問いに答えるのは難しいのかもしれません。

ハワード氏も説明していた内容でもありますが、BeingとDoing、そしてHavingという概念があります。

これは、後々フレームワーク。つまり、何かを考えるときに整理する枠組みになるものとしても活用することもできます。

Beingとは何か。その人の存在そのもの。

Doingとは何か。その人の行動や行動したこと。

Havingとは何か。その人の所有しているもの、こと。

人間そのものの本質からすると、Beingを持っていること、Beingを向上させようとすること、Beingを褒めたり扱うことで人は本質的な満たされる人生になると言われています。

これはどちらかというと社会論ではなく、人間論だったり、人生観の話かと思います。

ではこの二つの飛躍した領域をどう繋げることができるのか、それを考えていきましょう。

Beingを上手に扱うことができるのはではどのような社会なのでしょうか。

どのような社会論がありうるのでしょうか。

これは一つの大きなテーマになるかと思います。

例えば、それはベーシック・インカム(Basic Income)として論議されているようないるいるだけでお金をもらえるようなことなのだろうか。

実はそれだけでは人は生きる幸せを得ることはあまりできないということも言われています。それは、「与えることが幸せ」というようなお話です。

どういうことか、自分が豊かであることを実感する方法は、自分が与えること。そしてそれが、自分が豊かであり、与えることのできる優れたBeingであることを自分自身が認識し、理解する方法であるということなのだ。

つまり、仮にBIが実行されたとしても社会保障になったとしてもそれはBeingとして、自分自身として行動して与える存在にならなければ、心から豊かな気持ちにはなれないのである。だからこそ、安全・安心を与えつつ、貢献する場を与える。貢献できるようにする。

人生の最も若いうちから、最も晩年にわたるまでこの原則は変わりないのではないかと思います。

このように考えていくと少しずつではありますが、社会と経済、人生観等を鑑みて理想的な近未来が見えてくるのではないかと思います。

少し話が大きく展開しましたので、枝分かれしたところまで戻りますね。

それは、福祉が社会的価値を生み出していないという経済学的なお話のところです。

経済的な話に戻ると社会を一つの家族というか、家計と見るならば、出費の最たる部分になるのではないでしょうか。

でもその出費が、必要ではないとは言わないはずです。

“社会”家族の支えているものならばですが..

仮にそれが無駄な内容があるのであれば、削減対象にはなるのでしょうね。

今回見つけたのは、社会における金融、投資という分野とこの福祉分野の対応性についてです。

類似点としては、存在性の部分にかかるということ。

どういうことかというと、福祉は仮にそうだとすると存在性の部分の生存の部分を保証するような役割がありそうです。

金融や投資というものは、仮にうまく使われるとお金がお金を産むという価値の

スパイラルを産みます。

その他の仕事というのは、お金の価値というものに対応させて報酬を換算しています。

全てはかけがえのない仕事になりうるのですが、現在のマネーシステムではお金の換算ということが案外大きなウェイト(比重)を占めていたりします。

さて、その存在性の部分でお金が差し引きできないかということが今回のアイデアの最たる部分です。

お金というものが価値あるもので、その価値あるものを介在して経済システムが回っているというのなら、投資や金融という部分こそ社会保障的な要素を担保しなければいけないんじゃないかなというマッチングです。

今は国が回り回ってその役割を担っているのかもしれませんし、そうではないのかもしれませんが、これはバイパス仮にした場合、業界的なマッチング、補う要素としてのバランスとしてありだと思っています。

ちなみに、自分は、ちょっとわかりにくい文を時々書くのですが、それもしょうがないのかな、むしろそれを走らせて行かなきゃいけないんじゃないかなと最近思うようになりました。

もちろん編集したり、小学生にもわかりやすくする努力や作業というのも大切だと思いますが、それは編集力という別の力なんだとわかりました。

そうなってくると、執筆力、まずバッと頭の中にあるものを紙面なりタイプして外に引っ張り出してくる。それが大事なんだなと。

読み返してみて、自分が何を言いたかったかわからないこともたまにありますし、(笑)それはうまくなおして文章が増えたり減ったりすることもありますが、それも含めて勉強だったり、アウトプット、人に伝えること、自分で理解するということの範疇の中にあるんだなと思います。

ちなみに、昨日のTSUTAYA(本屋)リサーチでは、BI(ベーシックインカム)を金融的なシステムとして組み込むようなことを提案している人の文章が見かけました。

時代性としては、AIが本格利用されつつ、議論も煮詰めてしまうのでしょうね。

世界一の高齢化先進国としては、世界でも一番早くその結果を出してくれるのではないでしょうか。

(日本のことです。)

では今日はこの辺で、

(^^)/

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